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個展「117」展示記録

誉田千尋 117

2024年6月9日(日)〜6月23日(日)

ビッカフェ 岐阜市弥生町10番地 やながせ倉庫2号館1階

チラシ (PDF)


アーティストトーク

2024年6月15日(土)

ゲスト:金子智太郎(愛知県立芸術大学)

二種類の「同期」


※この文章は、展覧会会場で公開した文章に、若干の修正を施したものである。

 私が《117》の着想を得、最初の展示を行ったのはのCOVID-19が世界的に流行していた2020〜21年のことであった。私は幼少から内に抱えていた他者と意思疎通することにたいする恐怖と、コロナ禍で変容した時間感覚や社会のありかたを背景に、技術、時間、コミュニケーションそして音についての「実験映画」を制作したいと考えた。作品の構想にあたり、私は時計、電話、録音が融合した、NTTの117番時報サービスの特異性に着目した。

 インタラクティブな要素を含むこの作品を「実験映画」と呼ぶことには理由がある。数奇な縁から、私は映画の音響制作に関わる機会を得たが、そこには音によって映像に「臨場感」や「リアリティ」をあたえるための修辞的な技法に満ちていた。《117》の一側面はサウンドデザインのための映画であり、その限りにおいて「実験的」である。《117》の体験の重要なポイント(少なくとも作者がそう思っている)のいくつかは、映像とサウンドトラックに関する私たちの習慣と、音響化されたコトバの力に拠っている。マイクを持った男がなにか喋っていると思うのは、あなたがスピーカーの音とスクリーンの映像とを無自覚に関連づけているからである(実際には、男の映像と声は別の時間に別の場所で収録されている。いわゆるアフレコである)。映像は一時的にフリーズすることがあるが、それに気づかないのは音が切れ目なく流れているからである。受話器から聞こえる時刻の正確さに驚いたとしたら、それはあなたがその言葉の内容を理解できていたからである。

 午後5時46分30秒をお知らせします……。「お知らせします」とはつまるところ、どういうことなのだろう? それはある刻限の到来を報せる。だが、それに連れて、合成された声の主の、おぼろげな主体のようなものまでもが同時に迫ってくる、そのような修辞的な効果をも「お知らせします」は含んでしまっているような気がする。

 インターネットに接続された携帯端末をほとんどの人間が肌身離さず持っている現代では、時報サービスとしての117番の実用性は、ごく限られた場面でしか認められない。私は、現代の電話時報はその無用さと自己言及的な性質ゆえに、ある種の「崇高」の域に近づいているのではないかと思うことがある。それは言わば、電話網上に存在する同期の記念碑である。117番が不要になり、ほとんど忘れ去られたということは、その原理がより精緻になり、不可視で偏在化し、私たちの意識と身体のより近いところに接近していることに他ならない(けれども、その事態が決定論的に、加速度的に進行しているかどうかは私にはわからない)。自己宣伝的な主体を醸成する社会規範とメディア環境が仕掛ける、情報牧場の際限のない同期と接続の中で、117番は私たちの住まう世界の起源のひとつである。映像のなかで時を報せている人物は私(誉田)自身である。私は自ら117番を「演じる」ことで、コミュニケーション過多の時代に生きる私たちの生の一端を示したかった。

 ここまでみてわかるように、《117》には大別して二種類の「同期」が混在している。ひとつは想像的な同期で、リアリティを仮構する(広義の)修辞の力に関わるものである。他方は現実的な同期で、科学技術と政治に関わるものである。両者はともに本来の117番に備わっていたものであったが、私はそこに「映画」の要素を付け加えることでそれらを増幅し、異化させた。